
第1章
第3節 境界の契り
門の文様を満たす光が、次第に深みに沈んでいった。
第一鍵を置いた窪みは、音もなく閉じ、輪郭を失う。代わりに、黒鉄の表層に細い亀裂が走り、その隙間から冷ややかな風が吐き出された。
アゼリアは外套の襟を押さえ、視線だけでレインに問いかける。
「……まだ引き返せる」
その声は、門の低い響きに半ば吸われていた。
レインは返事をしない。右腕に宿る熱が、風に押し戻されるたびわずかに脈打つ。
門の向こうから漂うのは、匂いではない――名も形もない感触。
それは「在る」よりも「在った」に近く、どこか懐かしいのに、決して触れたことのない温度だった。
黒鉄の亀裂が広がる。
その奥に、複数の影が立っていた。輪郭は人のようでありながら、動きは水面に映る月のように揺れている。
一歩も動かず、しかし確かにこちらを観測していた。
アゼリアが低く呟く。「……迎えか、それとも試しの続きか」
レインはゆっくりと一歩、前へ出る。
亀裂の間を抜けると、風は途切れ、音も失われた。
そこは、色の層が水平に流れる空間――天と地の境界もなく、ただ淡い光の帯がいくつも重なって漂っていた。
影たちは、層の間からすっと姿を現す。
近づくほどに人の形へ寄り、衣のひだや指の節までもが明瞭になる。
だが、顔だけが描かれない。
眼窩も口もなく、そこにあるはずの部分は、空間の色をそのまま映していた。
ひとりが腕を伸ばし、レインの胸の革袋へ触れた。
革の内側で、彼の名が震える。
アゼリアが即座に巻物を開き、淡い光で輪郭を守った。
「契りを求めている」
彼女の声は、緊張ではなく確認の響きを帯びていた。
レインは、影の指がわずかに冷たいことに気づく。
その冷たさは拒絶ではなく、記録するための温度だった。
「……渡すか、分けるか、残すか」
アゼリアが選択肢を淡々と口にする。
レインはしばらく目を閉じ、右腕の熱を胸へ移す。
やがて、革袋の内から名の一部を取り出し、影の掌に落とした。
光も音もないやり取り。
影はそれを包み、胸の中心へ沈めると、初めて動きを見せた――わずかな頷き。
途端に、層のひとつが音を持った。
鈴の音ではない。もっと重く、長い、契約の鐘の音。
それは空間全体に染みわたり、亀裂の外の広場にまで響いた。
影たちは一斉に後ずさり、光の層の中へ戻っていく。
最後のひとりが立ち止まり、顔のない輪郭をこちらへ向けた。
その背後に、次の道を示す環が浮かび上がる。
アゼリアは息を整え、「これが第二鍵の所在ね」と呟いた。
レインはただ、その環を見つめた。
先ほど渡した名の欠片が、まだ胸の内で温かい。
契った代償は、確かに残っていた。