
第1章
第2節 測定者の審問
半円の広場をなぞる光が、ゆっくりと厚みを増した。
輪郭は霧のように震え、やがて人の形へと折り畳まれる。石と金属と風のあいだにある何か――それが、門の守護者として立った。
目に当たる穴は空虚で、そこから世界の色が一滴ずつ流れ落ちていく錯覚を覚える。
口はなく、代わりに胸部の環が回転し、無音のまま意味を紡いだ。
――測定開始。記録の呈示を求む。
言葉ではない。胸骨の裏側で鳴る、乾いた鐘の音に似た“告知”。
レインは一度だけ息を整え、掌の内に薄い灯をともした。炎ではない、名を得る前の温度。
アゼリアは外套から巻物を取り出し、巻頭に指を添えた。
「通行者、二名。記録の断片を提示する」
アゼリアが静かに告げると、測定者は首をわずかに傾け、彼女の手元を“読む”。
――過去:断章。名:仮置。捨象:未定。
門のうなりが一段深くなる。広場の石が低く共鳴し、足裏の骨に小さな震えが這い上がってくる。
レインは右腕の内側に走る波に呼吸を合わせた。サラマンドラは興奮も敵意も見せない。ただ、門の向こうを知っているという気配で静かに熱を保っている。
測定者が右の腕を持ち上げた。指先は環の欠片のように丸く、関節は音もなく回転する。
空気が一枚、剥がれた。
――審問:一。名を問う。
広場に薄い霧が満ち始めた。灰ではない。
霧は、音を吸い、輪郭を曖昧にする。記憶の境界が柔らかく撓んで、言葉の骨組みがきしむ。
レインは名を呼ばれた日の、遠い響きを思い出しかけ、そこで踏み止まった。
「……置いていくだけだ。捨てはしない」
彼は胸の革袋から、名の一部を刻んだ粗い御守を取り出し、指に挟む。
灯をその縁に触れさせると、霧の内で線が一本、鮮やかに浮かび、たちまち消えた。
測定者の胸環が、ひと目盛りだけ回る。
――名:保全意志、確認。
アゼリアが巻物をひとつ繰る。墨線が朝の光を吸って立ち上がり、輪と斜線と空白が、まるで呼吸するように微かに揺れた。
彼女は指で空白を示す。
「ここは空ではない。余地よ。――あなたが測るべきは、空白の“質”」
測定者は紙面をなぞり、ほんのわずか、手を引いた。
理解か、あるいは一時停止の合図。
――審問:二。過去を問う。
石床の中央、浅い彫り込みに黒が落ちた。
黒の中に、崩れる塔、焼ける信徒、剣の重さ。――レインの目の裏でしか鳴らないはずの映像が、ひと筆の形に凝縮されて立ち上がる。
胸の内側で、熱が強まる。過去の気配に、サラマンドラが反射する。
レインは灯を崩さず、熱の輪郭を細く伸ばして、黒へと橋を架けた。
燃やさない。塗り潰さない。
ただ、触れる。
黒の一角がわずかに透け、そこに別の景色――月の神殿の静けさが重なる。
アゼリアが短く息を吸った。
「二つの記憶を、並べるのね」
霧が揺れ、測定者の胸環が連続して回る。
――過去:呈示。矛盾:重畳許容。
門の表層に走る光が、脈を打った。
広場の空気が一段軽くなる。だが同時に、空の高みから細い音が降りてくる。鈴の群れにも似た、金属の微音。その音は、聞き取ろうとすると逃げ、忘れようとすると近づく。
アゼリアが目を上げる。「聞こえる?」
「……音が落ちてくる」
「鍵の合図かもしれない。――まだ、その場所は開かないけれど」
測定者が左の腕を持ち上げた。
今度は、広場の縁に刻まれた古い文字が淡く光る。レインが先ほど指でなぞったあの文言が、別の語を生み出していく。
“記録なき者、ここに至らず”に重なって、――“記録のみの者、ここに留まるべし”。
「記録と名、どちらか片方では、門は納得しないというわけね」
測定者は、二人のあいだの空気をすくうように腕を振った。
霧が狭まり、輪郭が鋭くなる。
――審問:三。捨象を問う。
レインは灯をいったん絞り、右腕の熱を底に沈めた。
捨てるのではなく、削ぐ。
剣を握る感触の記憶から、勝利の陶酔だけを、そっと剥がす。
残すのは、重さと代償だけ。
胸の裏で、告知が変調した。
――捨象:適正。
霧が割れ、測定者の足元から細い線が広場の中央へ走る。線はやがて円になり、円は鍵穴にも似た“窪み”を形作る。
しかし鍵はない。
アゼリアが巻物を閉じ、窪みに手をかざす。彼女の指先から、薄い光が一枚、紙のように剥がれて落ちた。
光の紙は、窪みの形に折れて、音もなく収まる。
門のうなりがわずかに静まる。
測定者は首を横に振らない。肯かない。ただ、胸環を止めた。
――判定:通行前段、合格。
レインは短く息を吐く。灯を解かず、ただ掌の上に留める。
「前段、ということは――続きがある」
アゼリアは頷く。「鍵が必要。音はその所在を示す。音の落ちる穴――第一環のどこかに、通過権を現実に変える“実鍵”があるはず」
測定者が、ついに右手を彼らのほうへ差し出した。
指先は空を掬い、そこに小さな輪が結ばれる。石でも金属でもない、ここではないどこかの“縁”。
輪はすぐに解け、地面の上に、三つの方向を指す淡い線が現れた。
「道を、示してくれるのね」
レインは線を目で追う。一つは北東の段丘へ、ひとつは南の砂走りへ、最後は西の割れ谷へ。
「三つの道、三つの鍵……あるいは三つの試し」
測定者の胸環が最後に一度だけ回った。
――警告:名の喪失に注意。鍵は音に似て、拾う前に消える。
広場を満たしていた霧がほどけ、音が戻る。
風の乾き、遠雷の鈍さ。
測定者は門の文様に溶け、もといた輪郭へ吸い込まれていった。
静けさが、真の意味を取り戻す。
アゼリアは巻物を胸に戻し、外套の襟を正した。
「どの道を選ぶ?」
レインは右腕を軽く握り、掌の灯を細く伸ばして、北東の段丘に向けて揺らした。
灯はそこで、わずかに共鳴する。鈴の群れに似た微音が、耳ではなく骨に触れる。
「――北東だ。音が落ちてくる」
アゼリアは同意の印で短く頷き、歩み出す。
広場の中央に残された窪みは、微かな光を内側に溜めたまま、門のうなりと同じ拍で脈を打っていた。
背を向ける瞬間、レインは一度だけ振り返った。
黒鉄の門は、相変わらず空の色を与えない。だが、円環の彫りの一角――ほんのわずかに、朱が差して見えた。
朝の色か、或いは、門自身の覚え書きか。
段丘へ向かう道は、石と砂の縞が交互に現れる。
足裏の感触が変わるたび、遠い鈴の音がすこしだけ近づき、また逃げる。
アゼリアは歩幅を一定に保ったまま、横目でレインの呼吸を測った。
「名は保てている?」
「今のところは。……音を追うほど、名が薄くなる気がする」
「鍵は、名の濃度を測る装置でもある。濃すぎれば通らない。薄すぎれば消える。適度が最も難しい」
レインは小さく笑う。「殺しの加減と同じだな」
アゼリアは返事をしなかった。
ただ一瞬だけ、灰色の瞳に鋭い光が走り、それはすぐに冷たい静謐へ戻る。
段丘の縁に、黒い孔が口を開けていた。吹き抜ける風が、遠い谷から音を落とす。
「ここだ」
孔の周囲には、門の彫りに似た細い線が刻まれている。
線はところどころ欠け、砂に埋もれ、しかし中心へと収束している。
レインは膝をつき、耳ではなく掌を孔の縁に当てた。
骨へ直接、鈴の群れが触れる。
その奥で、硬いものが石に触れて鳴る。
アゼリアが巻物から薄い紙片を一枚剥いだ。
「音を記録する。孔の形に沿わせて――」
紙片は風に揺れつつ、孔の縁に吸いつく。
墨が自ずと走り、波形を描く。
レインは掌の灯を細くして、波形の脈へ重ねた。音が灯の中で形になり、灯の輪郭がわずかに硬質へ変わる。
孔の底で、金属の何かが小さく転がった。
「――出る」
レインが手を伸ばす。
指先に触れたのは、冷たい輪。門の文様に似て、しかし簡素な、携えるための環。
鍵かどうかは、まだわからない。だが、門に置いた窪みの形と、触れた瞬間の胸の告知が、答えを示す。
――取得:第一鍵(音環)。
レインはそれを掌で包み、アゼリアと視線を交わした。
彼女は頷き、短く言う。
「戻ろう。鍵が消える前に」
風が変わる。鈴の群れは、さっきより遠い。
彼らは段丘を下り、広場へと足を速めた。
背後では、孔の縁の波形が風に削られ、少しずつ崩れていく。音は拾われ、もうそこにはない。
広場の窪みは、彼らを待つように微光を湛えていた。
レインが音環を置くと、光は門の彫りへ一斉に走り、第一環のうなりは、余白を持つ静寂へと変わった。
測定者は現れない。
代わりに、門の向こうから、別種の気配が滲む。
――審問は終わった。次は、交わりか、別れだ。
レインは右腕の内側に問いを沈める。
灯は静かに燃え、名は胸の革へ戻り、過去は紙の断片として彼らの間に在る。
アゼリアが短く息を整え、視線だけで合図する。
「行ける」
「行こう」
広場を横切る彼らの影が、円環の彫りに重なり、音の余韻が最後にひとつだけ、骨を叩いた。
――門は、まだ、見ている。