
序章 第1話 灰の空、崩れた神殿
第6節〜第10節
第6節 契約ではなく吸収
レインは、焚き火の前に腰を下ろしていた。
神殿跡の石柱がひとつ、風雨に崩れかけたアーチを保っている。そこに乾いた枝を集め、火を起こしたのはアゼリアだった。
火は弱々しく揺れ、その灯りが、ふたりの顔の陰影を深くする。
「お前の言っていた“契約”と……俺が経験した“吸収”の違いを聞きたい」
レインの声は穏やかだったが、その言葉の裏には切実な探究があった。
己の右腕に宿るもの――サラマンドラの魂。その存在の意味を、理解せずには前に進めなかった。
アゼリアは火を見つめたまま、口を開いた。
「契約とは、互いに『名』を交わし、記憶を認め合うこと。召喚士は幻獣の記憶を受け入れ、幻獣は召喚士の魂を受け入れる。その双方向の合意により、力が流通する」
「……対等な関係、か」
「ええ。召喚士は常に危うい存在よ。契約相手に喰われることもあるし、逆に支配してしまえば“傀儡”になる。だからこそ、契約の“環”は慎重に組む。中心に立つ召喚士を守るためにね」
レインは、自らの右腕を見た。
そこに“環”は存在しない。
ただ獣の咆哮と、焼けつくような記憶が渦巻いているだけだ。
「……俺は、名も知らずに喰らった」
「だからそれは契約じゃない。“吸収”よ。力を得る代わりに、記憶と意志を取り込む。もしあなたの精神が少しでも脆ければ、今頃は完全に獣に呑まれていたでしょうね」
アゼリアの瞳が、レインの右腕を見据える。
「けれど、あなたは耐えた。サラマンドラの記憶を自我に埋没させることなく、なおも人でいようとしている。……その事実こそが、今のあなたを特別な存在にしているのよ」
「特別など、望んだことはない」
レインは、火を見つめた。
火は生き物のように脈打ち、かすかに彼の右腕の鼓動と共鳴していた。
「だが……もはや、ただの騎士ではいられないのは確かだ」
「ええ。あなたは、既に“環”に触れてしまった」
アゼリアの声に、重みが増す。
それは、かつて彼女自身が通ってきた道を思わせる響きだった。
「環に触れた者は、選ぶことを迫られる。引き返すか、受け入れるか。だが中途半端に立ち止まれば、環は呑み込む。力も、記憶も、意志さえも……全部ね」
レインはゆっくりと立ち上がった。
火の光が、その背中を長く引き伸ばした。
「ならば――俺は前に進む」
「進んだ先に、何があると思って?」
アゼリアが問うと、レインはかすかに微笑した。
その笑みは冷たく、どこか壊れかけた意志の上に成り立っていた。
「答えを知らなければ……それを探すしかないだろう」
第7節 失われた名と血の記録
夜が深まり、神殿跡の空はさらに黒く沈んでいた。
灰は舞い上がり、空気の重さが静かに体を押し包む。
焚き火は燃え尽き、木片がぱち、と最後の音を立てて崩れ落ちる。
レインは眠っていた。
いや、正確には“浅い眠り”の淵にあった。
夢と現の狭間――そこに立つ彼は、明確な意志を持たず、ただ流されていた。
黒い霧。
土の匂い。
誰かの声――だが、その声には名がなかった。
《……レイン……おまえは……》
その言葉の続きは聞き取れなかった。
だが、自分に呼びかけていることだけは、確かだった。
振り返ると、そこに“影”が立っていた。
人のようで、人でない。輪郭は霞み、顔は闇に溶けて見えない。ただ、その胸元に――血のような光が宿っていた。
“あれ”は何だ?
問いかける間もなく、影は音もなく崩れた。まるで血の記録が地に流れ、誰のものでもない物語として霧散していくように。
――その瞬間、右腕が焼けつくように疼いた。
「っ……!」
レインは目を覚ました。
額には冷たい汗がにじんでいた。
焚き火は完全に消え、ただ灰と煙が残っているだけだった。
その傍らに、アゼリアの姿はなかった。
「……またか」
レインは右腕を握る。
そこには、夢に出てきた影と同じ“痕”があるような錯覚を覚えた。
まるで、血の中に記された“名もなきもの”が、彼の存在を蝕んでいるかのように。
不意に、視界の端に動きがあった。
アゼリアだった。
彼女は小さな巻物のようなものを手に持ち、神殿の崩れた壁に何かを記していた。
「……何をしている?」
レインの問いに、アゼリアは振り返らずに応えた。
「記録しているの。“あの日”に起きたことを。あなたが覚えていない出来事……失われた名前を」
「……なぜ、そんなことを?」
アゼリアは筆を止め、ふと目を伏せた。
「名を失った魂は、世界のどこにも属さなくなる。居場所をなくし、ただ彷徨うだけ。……私は、それをもう一度、“環”へと戻したい」
「……名を、戻す?」
「そう。記録されなかった名を、記すのよ」
レインは黙したまま、アゼリアの背を見つめた。
神殿の壁に描かれたのは、文字ではなかった。
抽象的な模様、輪、火の線、月の影、そして歪んだ双眼。
それらは、記憶でもあり、魂の残滓でもあった。
「これは、私が見た記憶の断片。あなたの、ではない」
「俺の……じゃない?」
「でも、重なっている。何かが繋がっているの。あなたと、過去のどこかが」
アゼリアは最後に線を引き、静かに筆を置いた。
「血の記録は、やがて“環”に還る。そう信じてる」
ふたりの間に再び沈黙が落ちた。
ただ風だけが、名を持たぬ記憶をそっと撫でていた。
第8節 暁の前兆
夜の帳が、わずかに緩んでいた。
空の端に、灰色よりも淡い光が滲んでいる。
それは、夜明けの前にしか現れない“暁の予兆”――
まだ太陽ではなく、ただ空の色が、闇から色彩へと戻る瞬間だった。
アゼリアは、巻物をそっと胸元にしまい、神殿の残骸を見上げていた。
崩れた柱。砕けたアーチ。風にさらされた石床。
その全てが、ひとつの“終焉”を語っているように思えた。
「……かつて、召喚戦争と呼ばれるものがあった」
静かに語り出した彼女の声に、レインは振り返る。
「多くの召喚士たちが、惑星の魂と契約を結び、幻獣を戦場に呼び出した。火星の“灼炎獣”、海王星の“深淵魚”、冥王星の“影王”、そして月の“夢見るカラン”……」
その名を聞いたとき、レインの胸がわずかに疼いた。
「だが彼らは、ただの兵器ではなかった。彼らには意志があり、記憶があり、誇りがあった。召喚士がそれを理解しないまま力を求めた時――環は、壊れた」
「環が……?」
「ええ。召喚士と幻獣の間にあるべき“環”――すなわち記憶と名を交わす輪が、力への渇望でねじれたの」
アゼリアは拳を握る。
「その結果、何が起きたと思う? 召喚は、吸収へと変化した。召喚士は幻獣を“喰う”ようになったの。力を、記憶を、自我を、すべて自分のものとして」
レインは無言で頷いた。
まさに、自分が経験したことだった。
「けれど、その吸収は完全ではない。喰われた側の記憶は、断片となって魂にこびりつく。――それが、あなたの右腕で起きたこと」
右腕が、わずかに熱を持った。
焼けるほどの苦痛ではないが、確かに“意識”がそこにある。
「俺は、何者かの記憶に侵されているのか?」
「あなたが侵したの。無意識のうちに。でも……あなたは、それに飲まれていない。まだ、自我を保っている。それが、他の“吸収者”と決定的に違うところ」
「他にもいるのか? 俺のような者が」
「ええ。かつての召喚士たちは、堕ちた後、“名を失う吸収者”と化した。彼らは幻獣の記憶に溺れ、自我を喪い、そして……次第に、人としての形すら失っていった」
レインは視線を空に向ける。
淡く光りはじめた空の下――まだ星々は消えきっていない。
「……俺は、あの時、剣を捨てた。それでもまだ、戦う意味を探している」
「ならば、その理由を“記録”し続けなさい」
アゼリアは、静かに言った。
「自分がなぜ進むのか、なぜ燃えたのか、なぜ“誰かの名”を呼びたかったのか――それを、忘れないで」
風が吹いた。
それは夜明けを告げる風だった。
第9節 動き出す“記録者”たち
世界の果て――と、かつて呼ばれていた地に、その塔はそびえていた。
黒曜石で組まれた螺旋の塔。
空を裂くように鋭く、雲よりも高く伸び、その影は昼も夜も地に届いていた。
塔の頂には、誰も知らない“書庫”がある。
そこに座す者たちは、“記録者”と呼ばれる存在だった。
「……環が、また揺れたな」
低く、しわがれた声が闇に響く。
男の姿は影に包まれていたが、その目は塔の外、遥か遠く――“灰の空”を越えた南の神殿跡を見据えていた。
「断章が発光した。失われた召喚環の欠片が、再び稼働を始めた証だ」
別の声が応える。
女のようでもあり、機械のようでもある、不定形な響き。
「観測記録から照合するに、反応源は“業火の記憶”。封印されていたはずのサラマンドラ・コードが……」
「否。完全なコードではない。名を介さぬ“吸収”による発動だ。未調律」
「それでは……記録違反か?」
「否。だが、“例外”だ。……“彼”の存在は、まだ枠に収まっていない」
塔の中央には、巨大な環状の魔法陣が埋め込まれていた。
それは回転しながら、無数の記号を浮かび上がらせている。
そしてその中に、ひとつの揺らぐ光点――赤く、まだ不安定な軌道で揺れる点が映っていた。
「コードネーム:レイン。記憶断裂あり。召喚者資格未認定。契約環喪失」
「だが、記録は始まった。環の再構築が、あの男を起点として進む可能性がある」
「ならば……“記録者”はどう動く?」
沈黙が落ちた。
だがその沈黙は、決して迷いではなかった。
「三名を送る。第一環、第二環、そして“封録環”から一柱ずつ」
塔の天井が音もなく開いた。
星のない空へ、黒い羽根のような影が舞い上がる。
「記録者たちよ――動け」
「“環”が正しく循環するかどうか、その選定を開始せよ」
空へ向かって飛翔する影のひとつが、わずかに炎を帯びた。
別の影は、背に月の紋を抱え。
もうひとつは、まるで空そのものが裂けたかのように、沈黙と共に消えた。
“記録”が、“観察”から“介入”へと変わる。
世界の環が、ついに静かに回転を始めた。
第10節 夢と記録の交差点
夜が明ける直前の空には、光と闇の境界が曖昧に溶け合っていた。
レインは冷えた石の上で目を覚ましたが、そこに朝のぬくもりはなかった。
空は静かに明るみ始めていたが、風はどこか緊張した冷たさを孕んでいた。
アゼリアの姿がない。
焚き火の灰も冷め、彼女がそこにいた痕跡だけが静かに残っている。
だが、ただの離脱ではない――そんな予感が、右腕の疼きとともに走った。
レインが立ち上がったとき、周囲の空気が音もなく変化した。
「……君は、まだ“夢”にいる」
その声は、聞き覚えのないものだった。
振り返ると、そこには“影”が立っていた。
影は人の形をしていた。
だがその輪郭は曖昧で、まるで現実と夢の狭間に存在するかのように揺らいでいた。
「誰だ……?」
問いに対し、影はゆっくりと頭を垂れた。
「我は“記録者”。名を持たぬ監視者。夢と現の間から、環の揺らぎを見届ける者」
「記録者……?」
「君が今いるのは、記録と記憶が交差する“境界”。
そこでは、眠りと覚醒の区別が曖昧になり、真実と幻影が混じり合う」
レインは右腕を握る。
サラマンドラの記憶が、今、警告のように揺れていた。
「おまえは、俺を試しに来たのか?」
「試す? 否。我々は干渉者ではない。まだ、その段階ではない」
影はふっと笑みのようなものを浮かべる――ように見えた。
「だが、“記録者”として、伝えるべきことがある。君の中にある“夢”は、ひとつではない。君が見ているのは、自分の記憶だけではないのだ」
「……どういう意味だ?」
「サラマンドラの記憶。かつて失われた召喚の断片。そして……もうひとつ、君に“近しい誰か”の記憶が交じっている」
その言葉を聞いた瞬間、レインの中で何かが軋んだ。
かつての夢の中で感じた“声”――呼ばれるような、懐かしい響き。
「それが誰のものか、君が知る時が来るだろう。だが、記録とは常に流動する。選び取ることも、捨てることもできる」
影は、足元に何かを落とした。
それは、銀の輪を模したペンダントだった。
「これは“夢の印”――君が本当に目覚めるための鍵。だが、それを使うかどうかは君次第だ」
レインが手を伸ばすと、影の姿は風のように消えた。
静寂が戻る。
空は、ようやく朝の光に染まりはじめていた。
そして――ペンダントだけが、現実に残っていた。