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召喚の環(サークル)

序章 第1話 灰の空、崩れた神殿

第1節〜第5節

序章 第1話 灰の空、崩れた神殿

第1節〜第5節

第1節 黒灰の空

 ――空は、色を忘れていた。

 地を覆うのは、燃え尽きた大地と、絶え間なく舞い降りる灰。雲はなく、陽光も差さぬ。ただ湿った熱気が、皮膚にまとわりつく。

 遠くで何かが崩れる音がした。それは命の絶える音ではない。古びた石が、その重みに耐えかねて音もなく崩れ落ちる――そういう、静かな死だった。

 焦げた丘の先に、黒く焼け落ちた塔の残骸が突き立っていた。

 かつて“太陽神殿”と呼ばれ、神の座を掲げた聖域。その面影は、今や欠片もない。

 ひとり、男が膝をついていた。

 かつて白銀に輝いていた鎧は煤け、肩の紋章は砕けていた。背に負った盾もまた、深く裂け、もはや象徴としての意味を失っている。

 男の名はレイン。

 “光の盾”と呼ばれ、神意に仕えた聖騎士。だが、その面影を今の彼に見出す者はいない。

 風が吹いた。灰が積もる。

 レインの肩に、剣に、髪に。

 彼は剣を手にしていたが、それはもはや戦いのためではない。ただ、倒れぬための支えであった。

 剣先は地に埋もれ、刃は赤黒く鈍く染まっている。

 その足元に横たわるのは、かつての同胞――信仰を共にし、剣を共に掲げた者たち。

 レインは目を閉じた。

 嘆くためではない。見るに堪えないからでもない。

 ――ただ、もう十分に見てきたのだ。

 「……俺の刃が、誰の命を奪った……」

 その問いは風に紛れて消えていった。空も地も、応えを返さなかった。

 右腕に疼きが走る。

 皮膚の奥、骨と神経の狭間で、何かが蠢いていた。

 レインは顔をしかめ、剣に体重を預ける。

 この感覚は――数刻前から続いている。

 右腕の内側に、赤黒い焼き痕がある。

 血管に沿って浮かぶ脈動。その奥から、咆哮の気配が響いた。

 「……サラマンドラ……」

 名を呼ぶと、熱がわずかに静まる。

 あの灼熱の竜。

 神殿が崩れ落ちる直前、突如として現れ、神官も兵士も信徒も、すべてを炎に包んだ異形の存在。

 レインは、その竜を斬った。

 ――だが、それで終わったわけではなかった。

 斬り伏せたはずの竜から立ち昇る魂の熱が、彼の右腕に喰らいついた。

 焼けるような熱、耳をつんざく咆哮、そして、その直後に訪れた空白――。

 今、その“魂の残滓”は、彼の中にいる。

 レインは一つ、乾いた息を吐いた。

 再び、色を失った空を仰ぎ見る。

 空は、黙したまま。

 その上では、神も、惑星も、ただの灰色に沈んでいた。

第2節 血に濡れた剣

 足元に落ちた剣が、風に煽られてわずかに転がる。

 レインは、その音に気づいて、顔を上げた。

 ――この剣は、本当に俺のものか。

 血と灰にまみれ、刃は歪み、柄には煤がこびりついている。

 だが、それは確かに神殿から授けられた“神意の剣”。

 誓いの証であり、光を示すはずの刃だった。

 握っていた感触だけが、まだ掌に残っている。

 だが、それが“信仰”を掲げた者のものだったとは、どうしても思えなかった。

 「……あれだけの命を……俺の手が、断ったのか」

 低く、乾いた声が喉を抜ける。

 瓦礫の向こう、灰の積もる死体。

 顔を知る者がいた。

 共に育った兵士。教義を唱えていた神官。まだ武器すら持てぬ見習いの少年――。

 誰が最初だったのか。

 どこで何かが壊れたのか。

 もはや、記憶は混濁していた。ただ、斬ったという事実だけが、右腕に残っている。

 「……呪縛か。あるいは……」

 右腕に熱が走る。

 再び、灼熱の魂が目覚めようとしていた。

 レインは息を詰めた。意識を右腕の中心に沈める。

 脈動――それはサラマンドラの気配だ。

 あの竜の咆哮は今でも、彼の血の中でうごめいている。呼吸を乱し、記憶を歪め、感情の境界を曖昧にする。

 もはや、この腕は“神の加護”などではない。

 焼け焦げた契約だ。

 彼は、剣を拾い上げようとしたが――力が入らない。

 肩が、腕が、拒む。

 もう、これ以上この刃を握ってはならないと、身体の芯が告げていた。

 「……哀れな話だな。守るために求めた力に、喰われるとは」

 自嘲を交えた独白に、誰も応えはしない。

 ただ灰だけが、静かに降り積もっていく。

 そのときだった。

 遠くで、足音がした。

 静かに、しかし確かな意志をもって。

 それは、生者の足音か。あるいは、死者の幻か。

 レインは剣を拾わなかった。

 ただ、沈黙のまま、音のする方を振り返った。

第3節 光と罪の記憶

 足音は、確かに近づいていた。

 砂利を踏む微かな音と、布が風を受ける柔らかな気配。殺意も敵意もなかった。ただそこに、何かを確かめるような気配があった。

 レインは、剣を拾わなかった。

 その代わりに、立ち上がった。

 背筋はまだ震えていたが、それでも、膝をつき続けるわけにはいかなかった。

 そして、立ち上がった瞬間――脳裏に、過去の光景がよみがえった。

 まばゆい光。鐘の音。白き神殿の大広間。

 「――レイン。主(あるじ)に、剣を預ける心構えはあるか?」

 威厳ある声。長身の老人。神殿騎士団の総長だった男――グレイ・ハルシオン。

 あの夜、レインは祝福を受けた。

 聖衣を身に纏い、騎士の証である銀の剣を手に、神の名のもとに宣誓した。

 己の命を捧げ、民を守ること。教義に従い、惑星に仕えること。

 そして、惑星の秩序を乱す“召喚”に関わることを厳しく禁ずること――。

 その場には、仲間たちもいた。

 豪胆な戦士・ベルトルド、慎重な文官・キリア、年若き神官見習いのフリート……。

 皆が剣を掲げ、光の中にいた。

 それが、すべて灰に変わった。

 その夜のことを、レインは明確に思い出すことができない。

 炎の竜が現れた瞬間までは覚えている。

 だが、その後――剣を抜いたのは誰だったのか。仲間を斬ったのは、本当に自分だったのか。

 「……違う。否定したいわけじゃない」

 レインは呟く。

 神殿が焼け落ちた夜、自分の右腕に宿った“何か”は、確かに望まれて現れた。

 無力だった己が、抗うために望んだ“力”の代償。それを認めないわけにはいかない。

 だがそれでも、ひとつだけ心の奥で渦巻いている疑念があった。

 ――召喚士。

 存在を禁じられた者たち。かつての大戦を引き起こした者たち。

 神の力を直接喚び出し、命と記憶を対価に、世界を変えようとした異端の術士たち。

 彼らは本当に“悪”だったのか?

 それとも、神にとって“都合の悪い真実”を知ってしまったがゆえに、封じられたのか。

 足音が止まる。

 レインは顔を上げた。

 そこに立っていたのは、一人の女だった。

 黒いローブに身を包み、灰色の瞳を持つ――静かな存在感。

 風に揺れる銀の髪が、赤黒い空に溶け込んでいる。

 彼女は名乗らなかった。

 だが、その沈黙のまなざしに、レインは確かに“理解”を感じた。

 この女は、知っている。

 “召喚の力”が何であるか。

 この焦土の正体が何であるかを――。

第4節 咆哮の残滓

 ふたりの間に、風が通り過ぎた。

 灰を巻き上げるその風は、まるで対話の代わりを演じるようだった。

 レインは、女の灰色の瞳を見た。

 そこには怒りも嘆きもなく、ただ透徹した静けさが宿っていた。人ではなく、どこか別の理に生きる存在――そんな印象さえあった。

 「……名は?」

 彼が問うと、女は一拍の沈黙を置き、応える。

 「アゼリア。かつて、召喚士と呼ばれていた者」

 その言葉に、レインの眉がわずかに動いた。

 “召喚士”。

 その名を口にする者など、今の時代にはほとんどいない。ましてや、名乗る者がこの廃墟に現れるとは。

 アゼリアはレインの右腕を見た。

 焼け爛れた皮膚。脈動する灼熱。そこに宿る魂の残響は、彼女にも感じ取れるものだったのだろう。

 「サラマンドラの気配が……まだ残っているのね」

 レインは目を細めた。

 「……お前は、これを知っているのか。俺の中にいる“何か”を」

 「正確には、“誰か”ね」

 アゼリアの声は落ち着いていた。「サラマンドラは、火星の下位魂獣。かつての召喚戦争で、幾度も戦場に現れた存在。契約を経ずして、その魂を取り込んだあなたは……異例の存在よ」

 「契約などしていない。――望んだわけでもない」

 「けれど、受け入れたのでしょう」

 アゼリアは一歩、レインに近づいた。

 距離は詰まらない。だが、そのわずかな移動で、空気が変わる。圧力ではなく、理解の重さが、重力のように作用する。

 「魂を取り込むというのは、力だけの話ではない。その存在が見たもの、記憶したもの、焼きつけたもの――それらすべてが、あなたの内に流れ込む。あなたがサラマンドラに呑まれなかったのは、奇跡に近い」

 レインは右腕を見た。

 皮膚の下に、まだ熱が残っていた。

 それはただの火傷ではない。

 獣の咆哮、断末魔の叫び、炎の奔流――それらがまだ、血の奥底で鳴りを上げている。

 「……あの夜、俺は斬った。だが、それで終わらなかった。奴は、死を拒んだ」

 「拒んだのではなく、還ったのよ」

 アゼリアが静かに告げる。「魂は還るの。属性の環へ。そして、そこに干渉する者の元へ……」

 レインは黙したまま、目を伏せた。

 「……つまり、俺は、その環に触れてしまったということか」

 「ええ。望まぬまま、環に選ばれた者……。あるいは、環に試されている者」

 彼女はローブの内から、小さな黒い結晶を取り出した。

 夜のかけらのような、それでいてどこか“月”を思わせる色をしている。

 「これは、“魂晶”。」

 アゼリアはそれをレインに差し出す。

 「この中には、月の幻獣“カラン”の欠片が眠っている。完全な契約は失われたけれど、今でも微かに反応を返してくる。……あなたの右腕の中にある炎とは、真逆のもの」

 レインは受け取らなかった。ただ、その光を見つめていた。

 「……魂晶。“召喚の環”と、関係があるのか」

 「あるわ。むしろそれこそが、環の基礎構造」

 レインの眉がわずかに動いた。アゼリアは、静かに続ける。

 「召喚とは、“力”を呼ぶことではない。“記憶”を呼び戻し、それと向き合い、受け入れたとき、はじめて力は発現する。……あなたの右腕に宿る炎も、今なお問い続けているのよ」

 「俺に、何を問うというんだ」

 「――お前は、誰を焼きたい?」

 沈黙が、ふたりを包んだ。

 遠く、風が一度だけ笛のように鳴いた。

 レインは何も答えなかった。

 そして、答えを出せないまま、右腕の灼熱が再び、かすかにうごめいた。

第5節 黒衣の女

 静けさが、風よりも先に森を満たしていた。

 神殿の背後には、かつて“信仰の林”と呼ばれた月桂樹の並木がある。今は燃え残りと焦げた根が残るばかりだが、その影に佇むアゼリアの姿には、不思議とこの荒廃と馴染むものがあった。

 レインは、ふと目を細めた。

 月の魂晶の仄かな光が、アゼリアの黒衣の内でわずかに灯っている。

 「……お前は、なぜ俺に近づく?」

 その問いに、アゼリアはすぐに答えなかった。

 風がローブの裾をなびかせ、わずかに露わになった彼女の足首には、古い呪符のような刻印があった。

 「あなたの右腕に、まだ“還っていない魂”があるから」

 それは説明のようでいて、告発でもあった。

 レインはわずかに息を吸った。

 炎の竜――サラマンドラ。その魂の残響が、未だ血の中で暴れている。それは否定しようのない事実だった。

 「俺は、ただ……」

 「望んだのでしょう、力を」

 アゼリアの声は柔らかく、しかし冷たかった。

 まるで、自らの過去をなぞるように。

 「守るために。斬られぬために。あるいは……誰かを焼くために」

 「……俺は、神に仕えていた。そんなものを、求めるはずがない」

 「けれど、あなたは今ここにいて、あの剣を手放した」

 沈黙が降りる。

 レインは俯いたまま、拳を握った。

 灰が風に乗り、ふたりの間を横切る。

 「私はね」

 アゼリアは静かに言った。

 「かつて、“契約者”だった。月の幻獣“カラン”と魂を交わし、召喚士として生きていた」

 「……ならば、なぜ魂晶は欠片のままなんだ」

 「私が、“環”を壊したからよ」

 その一言に、空気が凍る。

 “召喚の環”――それは、本来ひとつの完全な構造。惑星の記憶を繋ぎ、力と意志を円環に集束させることで、真の召喚を可能とする。

 「何があった?」

 「カランは、私の“記憶”を拒んだの」

 アゼリアは、自分の胸元をそっと押さえた。

 「私が生き延びるために切り捨てたもの。背を向けたもの。祈ることをやめた瞬間の、あの夜のことを」

 レインは目を伏せた。

 それ以上、言葉を続けることができなかった。

 アゼリアは魂晶を懐にしまい、そして静かに告げた。

 「あなたと私の違いはないわ。どちらも、力に喰われかけた。環に触れ、形を失った魂を内に抱えた者同士」

 「共に歩む理由にはならない」

 レインの声は、低く、冷たかった。だが、その裏には震えがあった。

 「ええ。けれど、それでも私は、あなたを独りにはしない」

 その言葉は、夜よりも深く、静かに響いた。